· 

インタビュー第1回 前半  

井の頭公園のお稲荷さんの会では、この地域に関わる様々な方に、インタビューをしていこうと思います。

 

 

第1回は、三鷹の歴史研究会、理事の太田さんです!

私たちは今回初めてお会いしたのですが、土地のルーツにお詳しく、気さくにお話してくださいました。

 

インタビュアーは、お稲荷さんの会の加藤(以下K)、小川(以下O)、タケイチ(以下T)の3名です。

 

 

 

 

1、三鷹と井の頭公園の今昔

 

(K,O,T)太田さん、今日はよろしくお願いします。

(太田さん)はい、お願いします。

 

(K)太田さんは三鷹の歴史研究会の理事でいらっしゃいますが、具体的にはどの辺りを調べているんですか?

 

(太田さん)三鷹全体です。井の頭、牟礼、新川、中原、北野、大沢、井口あたりが特に興味深い歴史がありますね。

 

(O)吉祥寺駅のまわりというよりは、今はバスで行くようなところに歴史があるんですね。

 

(太田さん)そうだね。中央線ができて駅周辺に人が集まるようになった。中央線はね、もともと甲州街道に沿ってひく予定だったんだよ。でも街道沿いの宿場町が、人が通り過ぎて行っちゃうって反対して、今のルートになった。そうしたら、もっと人が来なくなっちゃったんで、地元の人たちが出資して京王線を敷いたんだよ。

 

(O)そうなんですか!まだ鉄道がどんな効果を生むか、予測できなかったんでしょうね。

 

(K)その昔、三鷹は鷹狩りの場所だったんですか?

 

(太田さん)そう、徳川将軍のころには鷹狩りの場所だった。江戸城から6里以内は徳川家の猟区で、三鷹の井口に「塚」という所があるけど、ここがちょうど6里のところ。その外は尾張家の鷹場だった。その境界を決めるお狩り番ていう石が7個あって、今も5個は残ってるんだよ。

 

(K)すごい、残ってるんですね! 

家康は来たんですか?

 

(太田さん)いや、家光は、井の頭まで来たよ。そのとき泊まるための御殿を建てたのが、今の「御殿山」。2〜3回は来たらしい。

 

(O)井の頭公園の西側斜面からの一帯が御殿山ですよね。今も高級住宅が建ってる。

鷹狩りってどんなものだったんでしょう?

 

(太田さん)鷹狩りは、鷹を放って、小動物を狩るもの。ウサギとか、イタチとか。

 

(T)このあたりの山に、そういう小動物がいっぱいいたんですね。

 

(K)そういえば、鷹匠カフェってこの辺にあったね。鷹を飼ってる人たちが集まる場で。鷹をこう、腕に乗せたりして。

 

(O)あ〜、ありましたね。※下連雀、鷹匠茶屋

 

歴史といえば、塚の辺りに万助橋というのがあるけど、あれは渡辺万助という人が架けたらしいよ。

神田で醤油や味噌を作っていて、幕府に納めていたから、当時は商人には許されないはずの名字をもらったんだね。

明暦の大火のときに焼け出されて三鷹に移り住み、また味噌醤油を作って江戸まで届けようとした。

そうするとね、あそこからだとどうしても、玉川上水を渡らないといけない。そこで一番近いところに架けられたのが万助橋だよ。

1854年、今から170〜180年前だよね。

 

(O)その橋が今は、車もがんがん通る立派な橋になってるんですね。

昔は荷車で万助さんたちがお味噌を運んでいたんだ。

 

(太田さん)五日市街道を通って、今の高円寺辺りを抜けて、皇居のほうまでだね。

 

(T)当時から続いてる道なんですね。

 

(K)ところで井の頭公園の始まりには、渋沢栄一がかかわってるとか、、

 

(O)御殿山に渋沢栄一の作った井の頭学校があって。

 

(太田さん)今で言う感化院(少年たちの更正施設)だろう?

 

(T)そうです、そうです。井の頭学校の少年達が工事をして、公園の基礎を作ったらしいですよ。

 

(O)最初から恩賜公園だったの?

 

(太田さん)いや、途中からだね。

 

(T)一度天皇家のものになって、東京に下賜されたんでしたよね。

※幕府御用林だったのを東京都が買収、1883年に宮内省御用林になり、1913年に東京市に下賜

 

(O)そういう公園て他にもあるのかな?

 

(T)上野恩賜公園もそうですね。

 

2、親之井稲荷の歴史

 

(K)井の頭公園のお稲荷さんのことなんですが、、

2013年の5月に火事にあって、半分焼けた状態でしばらくありまして。

公園の管理課には、再建したいという市民からの声や、寄付もあったようなんです。

ところが、お稲荷さんが誰のものか所有者がはっきりしない。

 

(太田さん)東京都のものでしょ?

 

(K)いや、それがややこしくて、、お稲荷さんは公園になる前からあるのに、今は東京都の土地になっているので、政教分離の関係で宗教的なものを新たには建てられないということらしいんです。

そして2014年夏頃に、焼け残った部分や石の鳥居、寄進されていた狛狐まで全てが撤去されてしまいました。

 

(O)所有者がいないと言っても、管理は公園や弁財天の大盛寺さんがやってくれていたのだと思います。2013年に頂いた大盛寺のお札にはご本尊と並んで親之井稲荷の文字がありましたし。

 

(T)それ以前にも節分会でお坊さんたちがお稲荷さんにもお経をあげてるのを見ました。

 

私たちは、特定の宗教とは関係なくて、ただあの場所がとても素敵だったので元に戻せないかなと思って集まったのですが、

政教分離のこともあり、お寺さんも今は関係ないという方針で、なかなかすぐに再建とはいきません。

 

(太田さん)大盛寺、あそこは天台宗のお寺だね。最澄が中国に行って修行してきて、日本で開いたのが天台宗。

 

(T)そうですね。大盛寺の縁起によると、ご本尊の弁財天像は最澄さんが彫ったものだそうです。

 

(O)たしかに、巳年の御開帳のときに見た弁財天像は、鎌倉仏等よりもずっと古い感じがした。お顔立ちとか、衣装の形も。

 

(太田さん)最澄か、それに連なるものかも知れないね。

あそこには宇賀神像もあるね。※とぐろを巻いた蛇の体にお顔がついてる不思議な像。

 

(O)もとは大盛寺の正面の駐車場脇にあって、今は弁財天堂の敷地内に移されました。

偶然ですが、宇賀神像を移動した直後にお稲荷さんは燃えています。

 

(T)宇賀神とお稲荷さんの神様は同じ、あるいは関係があるとも言われていて。

 

(太田さん)宇賀神はインドの神様だよね。蛇の形だものね。

 

(K)大盛寺は弁財天、大黒天、毘沙門天も祀っていますが、みんなもとはインドの神様ですね。

あと不思議なのは、本堂左脇の小島にある七井不動尊。不動尊は日本の神様だけど、昔の地図には同じ場所に「聖天」と書いてあって、それって全然別のインドの神様なんだよね。

 

(O)七井不動尊のところには、弁財天の頭に宇賀神が乗っかってる像があるね。

 

(K)宇賀弁財天、ていいますね。

 

(T)そのままくっついちゃってる!

昔はおおらかに、いろんな神様を一緒に祀っていたということなんですね。

 

(太田さん)神仏習合でね。※日本古来の信仰と、渡来した仏教の教えが融合した。

 

(T)江戸の終わりに今度は神仏分離令が出て、色々な像を守るためにもはっきり分けたり、仏像ということにしたりしないといけなくなった。

今は厳しく分かれちゃってるから、お稲荷さんも誰のものでもなくなってしまったのかな。

所属は分からなくても、親しんでいたみんなのお稲荷さんなんですけどね。

 

誰が建てたのか、いつからあったのかははっきりしていません。

1650年代の牟礼村の地図には、今の位置に「いなり」と書かれています。その頃にはあったと思われます。

 

(太田さん)350年くらい前か。

 

(T)だとしたらかなり古くて、歴史的にも大切なものですよね。

 

(太田さん)とんでもないね。そういうものが燃えてしまうなんて。

 

(T)新しい鳥居もあったし、大事にしていた方はいたんです。

 

(O)寄進とかされてたわけだものね。

 

(太田さん)そういえば、行くといつも花が活けてあったよなあ。

 

そういう文化財をちゃんと残そう、大事にしようって気持ちがあるんだよね。

歴史研究会でも、ひとつひとつ現在分かる限りのものを残しておく。フィルム写真は劣化してしまうからデジタルデータにして、資料もパソコンに入れていつでも取り出せるようにしてね。

 

後半に続く